―― 第一章 ③ ――
退職を決めた日の、数日前のこと。
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仕事復帰して初めて、
育休前と同じような達成感を得られた日があった。
2人出産して、4年ぶりの社会復帰だった。
ブランクもあった。
子供は小さい。
正直、毎日いっぱいいっぱいだった。
だからこそ、
あの日の達成感は特別だった。
「まだ私はできる」
久しぶりに、仕事の自分を取り戻せた気がした。
嬉しくて、気持ちよくて、
このまま頑張ろうと心に決めた。
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その夜、子どもたちを寝かしつけたあと、
布団の中でスマホを握りしめながら、
ヴァンクリーフ&アーペルのオニキスのピアスをポチッと購入した。
勢いだった。
でも、ただの勢いじゃなかった。
「揺るがない意志」という意味を持つオニキス。
やっと取り戻せた“仕事の自分”を、
ちゃんと肯定したかった。
あのピアスは、
「これからも私はブレずに頑張る」という
自分への小さな宣言だった。
だから数日後に退職を決めるなんて、
あの夜の私は想像もしていなかった。
でも今ならわかる。
あの時選んだのは、
仕事を続ける覚悟じゃなく、
“自分の軸を取り戻す”という意志だったのかもしれない。
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次の日の出来事。
保育園の行事で、
上の子の気持ちが大きく揺れた。
その姿を見た瞬間、
「私は子どもたちとちゃんと向き合えていないんじゃないか」
と、心がざわついた。
周りの目。
焦る私。
うまく声をかけられない自分。
達成感の余韻は一瞬で消えた。
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週明け、
追い討ちをかけるように、
ひょんな行き違いで大好きな部長に怒られてしまった。
ショックだった。
でも、同時に気づいてしまった。
私は、
仕事も子育ても、
どちらも中途半端な気持ちでやっているんじゃないかと。
子育てはやめられない。
だったら、
私が選ぶのはどっちだろう。
…
…退職を
…決めた。
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次の日、部長と支店長に泣きながら話した。
すごくびっくりされた。
部長は、
「両立が上手くいかないのは、今は当然のこと。辞めなければ、絶対大丈夫。また満足に仕事が出来る日がちゃんとくるから。」
と言ってくれた。
支店長は、
私に何度も聞いた。
「本当にいいのか?後悔しないのか?」
泣きながら答えた。
「後悔はしないと思います。でも、あの時は楽しかったなって、これから何度も思い出すと思います。」
子育てと仕事の両立は、
私には限界だった。
支店長は、大泣きする私にこう言った。
「仕事を辞めたからといって、あなたの価値がなくなるわけじゃない」
その言葉は、今でも思い出すたびに胸が熱くなる。
背中を押してもらった。
でも、正直に言うと、
一番怖かったのはそこじゃない。
10年全力で頑張ってきた大手企業を辞めること。
肩書きも、実績も、評価も、
全部手放すこと。
私は、”ただの人”になるのかもしれない。
それが怖かった。
仕事は誇りだった。
母になる前の自分を支えてくれた場所だった。
それを、自分の意思で終わらせる。
怖くないわけがなかった。
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辞めると決めてから、辞める日までが一番しんどかった。
最後の日は、不思議なくらい実感がなかった。
本当に終わったのか、
まだ明日も出勤する気がした。
退職後の1ヵ月は、無気力だった。
達成感も、肩書きもなくなった。
私は空っぽになった気がした。
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でも、1ヶ月経った頃、
ふと静かに思えた。
やめてよかった。
あの選択は、逃げじゃなかった。
私は、
仕事を捨てたんじゃない。
仕事を辞めても、
私の価値はなくならない。
あの日、私は何かを失ったのかもしれない。
でも同時に、
自分で選ぶ人生を、はじめて本気で手に入れた。
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