―― 第二章 ⑤ ――
退職したあと、
急に莫大な時間が生まれた。
でも、何もできなかった。
一日中、ソファの同じ場所に座って、
テレビを流しながら、
当てもなくスマホを見続けた。
仕事のことを思い出して、
昼間から泣いた。
心なしか、食欲もなかった。
仕事がなくなれば、
負担は軽くなると思っていた。
趣味のカフェ巡りも、
捗ると思っていた。
でも、外に出たい気持ちになれなかった。
時間はあるのに、
何もできない。
それが、想像以上にしんどかった。
⸻
朝は、1時間遅く起きるようになった。
子どもたちは、
今まで1番早い時間帯に登園していたのに、
1番遅いくらいの時間の登園になった。
朝に余裕があるのは、嬉しかった。
やっぱり、あのまま続けていたら無理だった。
そう思えた。
でも、
空が明るいうちに迎えに行くのは、
少し変な感じがした。
上の子に言われた。
「ママ、明るいうちにお迎えに来てくれたんだね!」
嬉しそうだった。
その顔を見たとき、
少し胸が痛んだ。
私は自分ばかり大変だと思っていた。
でもこの子たちは、
小さい体で、
朝早くから遅くまで、
毎日ほぼフル出勤状態で保育園に通っていた。
私なんかより、
この子たちの方が、
ずっと頑張っていた。
申し訳なかった。
「これから一緒に過ごす時間がもっと増えるね!ママも嬉しいよ!」
そう言いたかった。
…でも、言えなかった。
私はまだ、
母としての自分に自信がなかった。
急に距離が近くなることが、
不安だった。
⸻
毎日通勤で使っていた、
大きな鞄は
もう使うことがなくなった。
社用携帯も、iPadも、
ペットボトルも入っていたあの重たい鞄。
今は、小さなショルダーバッグだけ。
退職した日にもらった
手紙やプレゼントや
持ち帰ってきた荷物は、
1ヶ月ほど、
自分の部屋の床に置いたままだった。
片づけられなかった。
触れなかった。
会社で使っていた分厚いメモのファイルも、
最後の日までずっと捨てられなかった。
身軽になったはずなのに、
心は思ったより軽くならなかった。
⸻
そして二週間後。
保育園から電話が来た。
体調以外の事で、初めて。
「上の子がちょっと荒れちゃってて。
どうしちゃったのかなと思って。
最近何かありましたか?
早めにお迎えに来られますか?」
辞めたのに。
仕事をやめたのに。
私は、
仕事をやめればすべてが良い方向にいくと、
どこかで思っていた。
でも違った。
退職しても、
ごはんを用意して、食べさせて、
急かしながら朝の支度をして、
保育園に送り、
迎えに行き、
お風呂に入れて、
ごはんを用意して、食べさせて、
寝かしつける。
私が担うことは、何も変わらなかった。
そしてそれを、
誰にもお願いできなかった。
毎日、同じ場所を、
自分ひとりで回し続けなければならない。
仕事をやめれば楽になると思っていたのに、
私が本当に削れていたのは、
ずっとここだった。
⸻
外で働いている人を見ると、
劣等感が湧いた。
社会的な立場を失った。
私は、ただの人になった。
それが、怖かった。
でも、保育園からの電話をきっかけに、
私は思った。
私の今の仕事は、
子どもたちとちゃんと向き合うことなんだ、と。
外で成果を出すことよりも、
目の前の小さな気持ちを
受け止めること。
うまくいくことよりも、
揺れている心に気づくこと。
私はずっと、
「成果を出せるかどうか」で
自分の価値を測ってきた。
でも子育ては、
結果よりも、
その子の気持ちを認めてあげることのほうが、
ずっと大切だった。
私はそこで、
自分の“価値の基準”を
はじめて疑った。
そして、思った。
成果で自分を測るのを、
もうやめる。
無意識に、
子どもの評価者になってしまうのも、
もうやめる。
うまくやれなくてもいい。
誰かに証明できなくてもいい。
目の前の小さな心に、
ちゃんと向き合えたなら、
それで十分なんだと、
私は私に、
言ってあげたい。
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